オーグ営業日誌・訪問記
オーグ営業日誌 第2話「蓮くんの初出勤」
蓮くんが初めて出勤した朝、喫茶オーグの入口には、まだ新しい木の匂いが残っていました。ゆうべ書いた黒板の文字は少しかすれ、店の奥ではリコさんが電源タップの数を数えています。サイトづくりの店なのに、最初に数えているのが椅子でも豆でもなく電源だというところが、いかにもこの店らしい朝の始まりでした。
「何から覚えればいいですか」
蓮くんはエプロンの紐を結びながら、その日いちばんの質問をしました。「サーバー、ドメイン、WordPress、テーマ、プラグイン……ぜんぶ大事そうで、何から覚えればいいのか分かりません」。もっともな悩みです。並べられた言葉は、どれも初めて聞くと同じ大きさに見えてしまう。
リコさんは答えるかわりに、カウンターへカードを四枚並べました。「土地」「住所」「店内」「道具」。難しい単語をそのまま暗記するより、役割で分けたほうが迷いにくい。サーバーは土地、ドメインは住所、WordPressは店内、プラグインは道具。言葉が変わっても、役割の場所は動きません。
マスターはカードの上に、小さな矢印を足しました。土地を借りる、住所を決める、店内を整える、道具を必要な分だけ置く。「順番が見えれば、全部を一度に理解しなくても、前へ進めます」。蓮くんは、分かったような、まだ半分だけ分からないような顔でうなずきました。それでよかったのです。初日に必要なのは完璧な理解ではなく、次にどの扉を開ければいいかを知ることでした。
入口にいちばん近い席は、初心者のために空けておく
昼前、まだ誰も来ない時間に、杏さんが入口にいちばん近い席へメニュー表を置きました。そこには「はじめてのサイトづくり」とだけ書かれています。店の奥には、サーバー、WordPress、デザイン、書く・続ける、用語辞典と、専門の棚が並んでいます。けれど初めて来た人を、いきなり奥の棚へ案内すると、それだけで疲れてしまう。
蓮くんの仕事は、詳しい答えを最初から全部言うことではありませんでした。お客さんが「自分は何を作りたいのか」を自分の言葉にできるまで、隣で待つこと。ブログなのか、作品の置き場なのか、店の案内なのか、予約を受けたいのか。それが見えてくると、選ぶ道具のほうが後から決まっていく。道具から入るのではなく、置きたいものから考える。入口に近い席は、そのための席でした。
失敗しない約束より、戻れる道を
リコさんは「失敗しない手順」という言い方を、あまり使いません。画面は変わります。料金も変わります。サービスの名前も、ボタンの位置も、いつかは必ず変わる。だから本当に大切なのは、絶対に失敗しない約束ではなく、迷ったときに戻れる目印を残しておくことでした。
契約完了のメールは消さずに保存する。作業した日付を書いておく。設定を変える前の画面を、一枚だけ控えておく。分からない言葉が出てきたら、無理に進まず辞典へ戻る。蓮くんはその話を聞いて、メニュー表の端に小さく「戻れる道をつくる」と書きました。サイトづくりは開店日にすべてが決まるものではなく、書き直す日も、模様替えの日も、引っ越しの日もある。戻れる道さえあれば、その日もあわてずに済みます。
今日の相談席から
最初に覚えることは多く見えますが、進む順番はいつも一つずつで大丈夫です。まず、自分のサイトで何をしたいかを書く。次に、公開する方法を選ぶ。必要になったら、サーバーとドメインを調べる。分からない言葉が出たら、辞典へ戻る。それだけで、何もなかった場所に、入口らしいものが少しずつ見えてきます。
蓮くんの初出勤は、結局ひとつも注文を取らないまま終わりました。それでも、入口の席に置かれたメニュー表は、昨日よりほんの少し読みやすくなっていた。店を開ける準備とは、きっと、誰かが迷わず座れる場所を一つ増やすことなのでしょう。